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2019

第198国会 参議院 本会議 2019年1月31日


○福山哲郎君 昨年六月八日、鴻池先生が最後に本会議に出席されたあの日、偶然、本会議場入口のソファーで休んでおられた先生と二人きりで話す機会をいただきました。ひざまずき、先生、お元気で、早く治してくださいねと声を掛けた私を見て、うんうんとうなずいておられた先生の姿が忘れられません。まさか、あれが先生との最期のお別れになろうとは、余りにも寂し過ぎます。
本院議員鴻池祥肇先生は、国際経済・外交に関する調査会長として精力的に職務に邁進しておられたところでした。御体調が優れない中、吸入器を付けながら調査会を主宰され、先生らしい責任感の下、気丈に采配を振るわれるお姿を拝見し、頭が下がる思いでいっぱいでした。しかしながら、その後体調が戻られることはなく、去る平成三十年十二月二十五日未明、間質性肺炎により、都内の病院で逝去されました。享年七十八歳。誠に痛惜哀悼の念に堪えません。
私は、ここに、皆様のお許しを得て、議員一同を代表し、故鴻池祥肇先生の御霊に対し、謹んで哀悼の言葉をささげます。
鴻池先生は、昭和十五年十一月二十八日、兵庫県尼崎市にお生まれになりました。経営者であり、県議会議員であった鴻池勝治というお父上の存在が、先生に大きな影響を与えたと伺っています。物心が付いたときには、周りに芸事を稽古している人が何人もいた、お父上はまさに義太夫の稽古に励みながら、多くの人の面倒を見、先生の言葉を借りれば、真っ正直に、義侠心を持って生きていた、徳を残した、わしはおやじの徳という舞台で舞わしてもらっている。
そんな先生が、おやじのような政治家になると志を立てられたのも自然のことだったのでしょう。神戸大学附属住吉小学校・中学校、神戸高等学校を経て、昭和四十年に早稲田大学教育学部を御卒業。尼崎港運株式会社に入社し、昭和四十六年には代表取締役社長に就任、併せて青年会議所の活動に取り組まれました。昭和五十五年には、日本青年会議所の会頭に御就任。そして、昭和五十八年暮れの総選挙で、原健三郎先生、土井たか子先生ほかそうそうたる政治家が居並ぶ中選挙区兵庫二区から果敢に立候補されました。初戦は苦杯。三年後の昭和六十一年の総選挙で見事四十五歳での初当選を果たされたのであります。そして、衆議院で二期七年御活躍の後、平成七年の第十七回参議院議員通常選挙で当選され、以来、連続四回の当選を果たされ、平成二十五年四月には永年在職議員として院議をもって表彰を受けられました。本年一月には正三位旭日大綬章が追贈されました。
この間、先生は、建設委員長、国旗及び国歌に関する特別委員長、決算委員長、予算委員長、国家基本政策委員長、国民生活・経済・社会保障に関する調査会長、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員長、国際経済・外交に関する調査会長等の要職を歴任されました。
また、政府においても、小泉内閣で防災担当大臣、構造改革特区担当大臣、麻生内閣で内閣官房副長官など、数々の要職を歴任され、沖縄の開発、被災者生活再建支援制度の充実、規制改革、政権の中枢における様々な調整等に大きな役割を担われました。
党におかれましても、参議院自由民主党国会対策委員長、自由民主党参議院改革本部長など、国会、参議院の運営に深く関わられ、野党との間でも強い信頼感の下で公正な議会運営を追求されました。
最も印象的な先生のお言葉を御紹介します。
我々参議院は、衆議院の下部組織でも、官邸の下請をやっているのでもない。三権分立、議院内閣制を冒涜されたままこれを見過ごせば、参議院不要となってしまう。
平成十七年、郵政民営化に反対をされたとき、そして、その十年後、平成二十七年、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会、いわゆる安保法制特別委員会の委員長として、少なくとも二度にわたって先生はこの言葉を述べられています。与野党を超えて我らが参議院に対する先生の強烈な叱咤激励であります。
安保法制特別委員会に私自身は理事の一人として関わらせていただきました。与野党の緊迫した協議が続く中、可能な限り野党の立場をおもんぱかり、終始公平な運営を進められました。先生が委員長であったからこそ深まった審議、明らかになった資料なども数多く、尊敬すべき立派な委員長であられたとの思いは、いささかも変わることはありません。
中でも、先生と野党側筆頭理事だった北澤俊美元防衛大臣とのやり取りは、単なる与野党対立を超え、長い政治経験を経たお二人の、えも言われぬ信頼感と駆け引きがぶつかる、とても興味深い味のあるものでした。
さらに、参議院改革において先生の特筆すべき御功績があります。長年の大きな課題であった参議院の行政監視機能の強化、特に決算審査を重視した改革の実施段階において大きな役割を担われたことであります。先生が委員長を務められた平成十五年九月からの約二年間、決算委員会で、鴻池組と言われるほどの与野党の強固な意思統一の下、迅速かつ充実した決算審査が進められたことは、改革に対する院としての強い意思を内外に示すことになり、今日に至る決算重視の参議院に向けた道筋は確たるものとなりました。
政治を志して以来、河本敏夫先生の御指導を受けられた先生、その流れは、昭和十五年二月、衆議院本会議におけるいわゆる反軍演説で罷免された地元兵庫県の斎藤隆夫先生の反骨精神を受け継ぐものであり、周囲を照らしてその身の消え行くことをいとうな、政治家は一本のろうそくたれとの御薫陶でした。まさに先生の生きざまそのものであります。
先生は、筋の通らないことに対しては、歯にきぬ着せず鋭く問題点を指摘され、時には政府・与党幹部に対しても苦言を呈されるなど、気骨ある行動も度々示されました。一方、様々な社会の問題に対する率直な語り口は、時には暴言として受け取られ、世間を騒がせたこともありました。しかしながら、このような言動は、先生が政治をより国民に親しみやすいものにしようと努められてきたあかしでもありました。
さて、義太夫、歌舞伎、舞踊、文楽、そば、剣道、落語、かばんに手帳、革製品、料理、そして葉巻、先生がお好きだったものを挙げると切りがありません。剣道は六段。
義太夫、歌舞伎などはお父上の影響があったのでしょう。子供の頃から義太夫がわしの血に流れているんや、そう言われていましたね。特に、先生の大好きな歌舞伎十八番、勧進帳。源義経と知りながらそれを見逃す富樫左衛門の情に、先生が自らの生きざまを映しておられたことは容易に想像が付きます。安保法制特別委員長として、官邸や国対の意向を超えて野党に配慮され続けた先生は、あたかも富樫左衛門のようでした。忠臣蔵も幡随院長兵衛も、同様にお好きな演目でしたね。
晩年、先生が好まれた葉巻。平成十七年当時、郵政民営化反対を翻意させようと説得に来た盟友、麻生太郎副総理から勧められたことがきっかけで葉巻党になったと、そのときの様子を酒の席でうれしそうに語っておられましたね。
結びの前に、少し個人的なことを言わせてください。
先生は、自らの死期を悟られていたのでしょう。私に一本のお酒を下さいました。先生の大好きだった「義侠」という日本酒です。先生、このお酒を一体誰と飲めというのでしょうか。先生と御一緒に飲む「義侠」だからこそ、味わいが深くなるのではないでしょうか。とても寂しい。
また、先生がよくいらした京都の招猩庵という小料理屋さんで酒を酌み交わしながら、私の小学生の息子について、先生と流派を同じくする藤間流の舞踊が大好きで稽古をしています、落語が大好きでとても変わった男ですと紹介すると、そいつはいい、まるでわしの生き写しみたいな男だ、福ちゃんの息子ならわしの孫みたいなもんだ、その子の踊りをわしは必ず見に行くからなと、とても喜んでくれましたね。でも、今となってはもう息子の踊りを見てもらえなくなりました。とても残念です。
義理と人情と痩せ我慢、日本の保守政治家としての矜持を持っておられた先生のまなざしには、弱い者へのいたわり、厳しさの中にもあふれんばかりの優しさがございました。平成の世が終わろうとする今日、先生を亡くしたことは、参議院だけでなく、国全体にとっても大きな損失です。我々参議院議員としても先生の生きざまを深く胸に刻み、会派を超えて、政治家としての使命を精いっぱい果たしてまいりたいと存じます。
先生は、死生観の話になると、死はびっくりするほどの嘆き悲しむことではないで、いずれまた会えるんやとおっしゃっていましたよね。先生、是非またお目にかかって、日本を、天下国家を論じ合いたいと存じます。先生、大変お世話になりました。心から感謝申し上げます。
ここに、皆様と共に謹んで在りし日の故鴻池祥肇先生のお人柄と数々の御功績をしのび、御冥福と御遺族の御多幸を心よりお祈り申し上げ、哀悼の言葉といたします。

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